読了記録
十分脅されてしまいまして、言いようのないザワザワ感に侵されております。
言葉というものを「普遍語」「国語」「現地語」にわけて考えるということが新鮮でした。特に「国語」と「現地語」という局面の違いについては。
「普遍語」というのはある時代ある地域で成立していた、知的活動を表現、交換できる言語。ラテン語や漢文がそれにあたります。そしてそれが、これからは「英語」になる。(なっている。)
「現地語」とは日常使っている言葉を指しているのですが、それがどのように「国語」、(つまり、知的活動を表現、交換できる「現地語」)に昇格していったか。そしてそれはどの国、民族にもあることではなくて、日本は奇跡的に「国語」を獲得できたこと。などを論理的に説明してくれています。
そして、これからの知的活動、著者が「叡智をもとめる人」と呼ぶ人の活動に「日本語」は使われるのか。読まれるべきものは英語で書かれているので、圧倒的に英語を読み、読まれたければ英語で書く。その時代には日本語はもはや「国語」ではなく「現地語」になってしまうだろう。
小説家が書いているので文学に限定されたきらいのある本だ、という批判がありそうですが、それでいいじゃないかと思います。なぜなら、文学(の読み手の存在、読み継ぐ人を育てること)って、お金にならないので、ないがしろにされそうな今日を感じているから。いまどき文学部じゃあないでしょ的な、ね。![]()
たしかに、数十年後たとえばドイツ文学を専攻する学生がどれだけいるのか・・・フランス文学でも危うい気がする。日本人にくらべてはるかに英語に近い言語で育ったドイツ人がドイツ語で小説を書いているのか。小説を書くような人種はみな英語を使いこなし、日本人さえ英語で小説を書いているのではないか。その時代、だれが漱石を読み継ぐのか。
・・・極論的な本なのですが、いろいろ考えさせらるし、考えておかなくてはならないことが書かれています。
著者の『続明暗』を単行本で読んだとき、漱石の『明暗』でさえ現代かなづかいで読んでいるのに、その続編を旧かなづかいで読むという不思議な体験をしたのですが、その『続明暗』も文庫化されるときには現代かなづかいに改められて出版されたそうです。なんだか、著者が気の毒になってしまう話です。読まれたければ読み手に合わせる。これが将来は、かなづかいの問題ではなくて、日本語と英語の問題になっているかもしれないってことなんですね。
それにしても、日本という国が漢字を捨てなくて本当によかったなぁ。
以上、バリバリの「現地語」で書いています。絵文字付きだし。。。




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